シマダ ゴウ
SHIMADA GO
島田 剛 所属 明治大学 情報コミュニケーション学部 職種 専任教授 |
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発表年月日 | 2018/06/02 |
発表テーマ | (口頭発表)戦後アメリカの生産性向上の対日援助 — その戦略と労働組合、被援助国から援助国への転換点で |
会議名 | 国際開発学会第19回春季大会 |
主催者 | 国際開発学会 |
学会区分 | 全国学会 |
発表形式 | 口頭(一般) |
単独共同区分 | 単独 |
開催地名 | 聖心女子大学 |
発表者・共同発表者 | 島田剛 |
概要 | 本研究はアメリカによる生産性向上の対日援助に焦点をあて、戦後直後から1960年代のODA黎明期までを振り返ったものである。この時代は終戦後から、援助を日本が受けていた被援助国の時代と、援助国に転換していく時代である。本研究が目的とするところは、日本が被援助国であった時にどのようにアメリカの生産性向上支援を受容していたかを検証し、現在の日本のカイゼン支援と比較し、どのような特質があるのかを導き出すことである。 その特質は、第1に、米国・対日援助の受け入れにあたって、日本では政府ではなく民間セクター(特に経済同友会)が援助の受け入れに中心的な役割を果たしたことである。むしろ政府は活発な民間の動きを補助的に支える役割を担ったのであり、これは理想的な産業政策の在り方であったと言える。援助受け入れに当たって予算の半分(半年で1億800-3200万円)は日本が負担し、しかも政府ではなく大部分を民間が負担したのである。つまり、民間のコミットメントが高かったと言える。 第2に、アメリカの労働組合政策は日本の非軍事化・経済民主化の中で労働組合結成の奨励に始まり、東西冷戦の中で労働組合の西側陣営への取り込みへと代わり生産性向上プログラムの支援が行われるという戦略的な位置づけを持ったものであった。そうした中でこの援助が7年間で3,986名の研修員を受け入れるなど極めて大きな規模で実施されていた点である。 そして、第3に、労使関係はもともと対立的であったが、援助を受け入れていく中で協調的な労使関係に変化していったことである。つまり、協調的な労使関係は日本においても生産性向上に取り組む中でむしろ作り上げてきたのである。ということは他国においても同様の取り組みは可能であるということを意味している。アメリカの援助規模は大きかったにもかかわらず、現在の日本では生産性向上について被援助国であったという認識はあまり国内では持たれていない。それだけ日本が生産性向上を自らのものとして受容していったためと考えられる。 キーワード: カイゼン、生産性、対日援助、民間セクター開発、産業政策 |